GDR(つまり東ドイツ)
ど〜も、3C 丸岡です。 相も変わらずトロピカルな国との間を行ったり来たり。けど、たまには遠いところも行 ったりするもんで、9月 19 日から 10 日間ほどドイツに。 仕事の関係で行きも帰りもバンコク経由。9/17 の夜行便で 9/18 の早朝にバンコク着。
ちょうどその日の夕刻に 3C 同窓の岸くんもバンコク入り。それやったら9/18の夜にちょっと会いまひょか、と口約束しとりました。けどまあやっぱし彼も人の子、晩飯喰ったあとは、脂粉の香りに誘われて紅灯の巷の遊弋にいそがしく、会うことできひんのとちゃうやろかと思ったりしとりましたが、豈図らんや、宵の口にもならない時間に彼からケータイ電話。「飯喰って、いまホテルに帰ったから」あら〜、そ〜ですか、岸くん、品行方正なひとやったんや、と慌てて彼のホテルへと・・。 あ、いえ、これ、本題とはカンケ〜のない前振りですが・・。
さて、その翌日 19 日にドイツ入りしまして、23 日まではデュッセルドルフで関係業界 の展示会。そのあとヴェルトハイムWertheim、イエナ Jena、ワイマール Weimar、テ ッタウ Tettau など、関係先の会社や工場を転々と。文化都市ワイマールについては、 ワイマール憲法やゲーテ、シラーなどで聞き覚えはおありかと思いますが、あとはいず れも観光などとは無縁の遠隔地。
まあ、ここから本題に入る んですけど・・。 ドイツからタイに移動する 前日の 9/27 のこと。ワイマ ールから、工場のあるテッタウに向かう車の中で。運転するオッちゃんが「い ま、昔の国境超えたから、工場はもうすぐや」と。「え?国境?それはやっぱし西ドイツと東ドイツのくにざかい?」と私。「さいな」と彼。「ベルリンの壁なんか日本でも報道は多いけど、東西 ドイツの国境は知らんなぁ」「そしたら、帰りにちょっと寄ってみよか」「是非ともよろしゅう」
そんなことで、工場での打合せのあと、旧・国境の名残のある地点へと案内してもらいました。
「ほら、ここ、ね」「え、これなんでっか?」「墓標やね」
「墓標?」「ほら、手前の碑石の横、見てみ」「何書いてますのん?」「この近くで、東から西に脱出しよう
として殺された人の名前」「殺された・・?」
「ほら、1946 年の■■さんが初めで、 そのあと 1976 年の●●さんまで 12 人 が殺されはった。その墓標ですわ」「むむ・・」
「ま、西へ脱出しようとして殺されはったんは、ここだけとちゃうわね。国境沿いにあちこちありましたわな」「そうですか・・。で、その国境とは、ど んなふうなもんやったんですか」「フェンスやね」
「フェンス?」「知らん人にはわかりにくいわね。そした らちょっと移動して、見に行きましょか」「はいはい、是非とも」
で、次の地点に連れてきてもらいまして。・・・こんなんでした(→)。
かつて東西を分断する国境があったことを後世 に伝えるために、当時のフェンスの一部をこのよ うに遺構として提示しているようです。
案内してくれてるこのオッちゃん、筋金入りの職人エンジニアですけど、かつては東ドイツ人。 遺構フェンスに掲示してあるドイツ語表示につ いて説明してくれました。
(初めは杭と有刺鉄線だけのようで)
「ま、こんなフェンスがだいたい 3mの高さで、国境に沿ってずっと続いてた」「え?ずっと?・・つまり国の端から端ま で?」(注:前掲地図の緑の国境ライン) 「当たり前、端から端までず〜〜っと」 「あの〜、国境の長さが何百 km か何千 km か知りませんけど、ひつこいようですけど、ず〜〜っと、ですか?」「そうですがな。壮大な浪費やったわね」
(そこをこんな風に監視してたらしい)
「それがだんだん強化されてフェンスになって、監視塔もできたりして」
「なんか、それでも闇に紛れて脱出できそうな感じもしますけど・・」
「甘いね。大甘やね。フェンスは 1 面だけとちゃいまっせ。広いところでは 1kmの幅に 4 面もあった。」
「え?国境線、というより国境帯?」「そうやね。フェンスとフェンスの間には地雷が敷設されてましたな」「ラッキーやったら抜けられる?」「そんなん、許してくれるはずもない。高圧電流通ってるフェンスもある。しかも、フ ェンスに近づくと、それを検知して自動的に機銃が掃射する」「自動検知の機銃掃射ぁ? そ、そんなん、そこまでやってたんですかいな」「はい、やってましたな」
「むむ」(・・じっとフェンスを見るしかない)
さて、仕事の関係で私がつきあっているドイツ人のほとんどは「東ドイツ」のことを「東 ドイツ」とは言わず「GDR 」(German Democratic Republic ドイツ民主共和国)と呼び ます。ドイツ語では Deutsche Demokratische Republik なので DDR と呼ぶこともあり ますけど。
で、ドイツ人が「GDR」と口にするとき、元西ドイツ人の場合は、東ドイツは敵対者でしたから、なんの屈託もなく全否定的に「GDR」と呼びますが、元東ドイツ人が「GDR」と口にするとき、そこに苦渋と自嘲に満ちた響きはあるものの、全否定には至らないニュアンスを感じることもあります。
元東ドイツ人で、現在ドレスデン近くでエンジニアリング会社を経営する 40 代の社長 なんかは、「まあ、いろいろありますけどなぁ、GDR のときは教育は無償やったし、徒に競争に急かされることもなかったし・・」みたいなことを言うわけです。あの「壮大 な浪費」である国境フェンスに囲まれた GDR に生まれそこで成長し、ある日そのフェ ンスが消失して是非なく資本主義社会に放り出された元東ドイツ人の実感は、我々がニ ュースやスパイ映画・小説などで繰り返し見聞きしていた GDR の「負の側面」とはい ささか趣を異にするところがあるようです。
そう思うとき、「壮大な浪費」によって「そこまでして」GDR が守ろうとしたものは何だったかという疑問が湧いてきます。そして、それとは反対の考えから GDR を脱出しようとしてついに成し得なかった人々は、命を賭してまで何を得ようとしたのでしょうか。 自由主義がとか、共産主義がとか、そうしたことへの不思議な情熱は、やがて世俗的な熱狂に変質し、「壮大な浪費」となった国境フェンスをめぐる攻防に形を変え、多くの犠牲を払いながら、ついにどちらが勝った・負けたの結果にのみ戯画的に収斂されてしまい、最初に語られていた意味を誰も口にすることがなくなるのでしょう。
多くの場合、<歴史>とは、「勝てば官軍」側が嬉々として語るそれであって、「負けれ ば賊軍」側の非を暴き立てることに忙しいようです。私たちもそうした<歴史>の中に 立たされているのですが、まことしやかに語られる<歴史>の騒音の中で、秋の夜の幽かな虫の声にも似た真実をどこまで聞き取ることができるのでしょうか。