「助けて〜っ」
私達5人(浅田(2-G)・荒井(2-G)・小倉(2-E)・梶(2-G)・高田(2-G))は、まだ見えない遠くの人声に向かって叫んだ。
数時間前、鳥取駅前から路線バスに乗ったら、乗客は私たち5人だけ。三本松?とかいう停留所で降りるとき、運転手さんに『砂丘へ行っても砂は見えませんよ』と訝しがられた。車窓からの風景はだんだん雪深くなっていき、停留所に降りると一面の雪景色で、砂丘の方向さえ良く分からない。女子高生にとっては、砂丘という響きだけでロマンを感じられる憧れの地。しかも、それが砂ではなくて、滅多に見ることない雪だったのでなおさら。ロマンは何処へやら、少女たちは大興奮して五人でどんどん雪原の中を歩き始めた。
1969年1月、高2冬休み、私にとっては初めて友達同士で、2泊3日の山陰旅行に出かけた。五人で出雲→松江→鳥取の旅。どういうルートで行ったのか殆ど記憶にないけれど、心配した父が事前に松江の旅館を探してくれたこと、松江駅近くの民宿のようなその旅館で、電気炬燵の上でミカンを食べたこと、出雲大社でお参りしたこと、どんよりと暗い日本海に向かって歌を歌ったこと、などが薄っすらと記憶に残っている。唯一、鮮明な記憶は、雪の鳥取砂丘。
はしゃぎながら、海岸と思える方にどんどん進んで行くと、雪が徐々に深くなって、靴が濡れ出した。それでもまだ、ワンゲルが二人いるから大丈夫とキャアキャアいいながら、小高い丘を越え、僅かに見える緑を目指して進んだ。真っ白な雪は、純真な少女の心をそれほどに惑わせたのか、いつの間にか、太ももまでズボズボ入る深さの雪に囲まれた。それでも最初は、濡れた友達の服をからかったりしていたが、ふと気が付くと、周り一面の雪で、方向も場所も元のバス停の場所もわからなくなってしまった。
どんよりした空は太陽もなく、切り株の年輪を見れば方角がわかるとか言ってたけど、切り株どころか、時々見える緑は恐らく大木のてっぺんだと気づき愕然(・・;)流石の楽天家女子高生たちも、だんだん青くなって、さらに雪の中をもがいて丘の上を目指した。どれほど、時間がかかったのか。冷たく濡れたはずが、汗ばみ、「無謀、女子高生、雪の鳥取砂丘で遭難死」なんて見出しが頭をよぎった。深い雪は辿ろうにも自分たちの足跡さえわからず、5人ともがパニックになっていた。いつか、無口になって、どの顔にも焦りがありあり。そんな時、遠くにかすかに人の声がした。起伏のせいで、その姿はみえなかったけれど5人は一斉に『たすけて〜!』と叫んだ。
『きゃぁあー』『たすけてぇー~』何度かの叫びの後、ようやく見上げた向こうに小さく人影が見えた。しばらくしてから意外と近くから顔を出してくれたのは、子供だった。このお姉さん達はどうしたのだろう。なんでこんなところにいるの。濡れてなにしてたの。雪の丘でソリ滑りをしていたとおぼしき小学生達が、怪訝な顔で、近づいて来てくれた。
彼らに助けられ、九死に一生を得た私達5人。次の記憶は、その子達の家の囲炉裏端でおぜんざいを食べたこと。服を乾かしたこと。青ざめた私達が、なんと言って、小学生に助けを求めたのか、彼らがどう答えてくれたのか。恥ずかしくて、記憶から消そうとしたのか、覚えがない。小学生に先導され、家に行く道の途中で、ホッとしておなかがすいているのに気づき、誰かが『カメラケースの皮は食べれる。』と言ったり、犬を見て、かんこが『おいしそうな犬』って言ったとか、言わなかったとか・。
卒業20年の初めての同窓会で5人が顔を合わせたとき、その話になって、5人ともが血液型B型だった驚き。血液型ブームだった時で、その確率にびっくりした。旅行についてそれぞれが記憶している部分もまちまちだったけど、遭難騒ぎだけは皆が覚えていた。
三年前の還暦同窓会の前に、同窓会で放映する思い出ビデオを作るため、皆から写真を募ったとき、マリちゃんが、その時の旅行写真を持っていたことを知って、また驚いた。写真は、マリちゃんが撮影していたため、四人しか写っていない。始めて見る写真を手にして、再び5人が22年ぶりに揃った『還暦同窓会』。43年前のその写真を手に記念撮影。よくぞ、生還して、この日を迎えられたことに感謝した一日でした。周りの人にその話をすると、『探偵ナイトスクープ』に頼んで命の恩人を探さないと・・・と言われる(~_~;)
私は、今も雪が苦手。
3-E 浅田千鶴
(HP担当注:1枚目と6枚目の画像は、現在の冬の鳥取砂丘です。)