籠球譚

H-1

先日の同期会の始めに、同期生の物故された29名の方々に黙祷を捧げましたが、その中のひとり、若くして不慮の死を遂げた、大隅 勉君(H組)を偲ぶ文を、いただきました。

19期の大田明氏が、バスケットボールクラブ創部77周年のクラブ記念誌(2000年発行)に掲載するため書かれたものです。

これを、20期のバスケットボール部のクラブ幹事の松宮さんから預かり、是非同期の皆さんに見ていただきたいと預かったものです。




籠 球 譚

大隅01

第1回近畿クラブチームバスケットボール選手権大会

1983年2月5日 京都府立体育館

  太田 明


オークンが深夜の盛り場で、禍々しい災禍にまき込まれて、頭部に恢復不能なほどの損傷をうけて脳外科の集中治療室に運びこまれたという連絡は、かつてのぼくたちの籠球チームのたまり場のようでもあった居酒屋の主人からだった。いまは活動停止のようになってはいるが、かつてのチームのメムバーの消息はこの店に一報がはいり、自然にできあがった連絡の網の目をつたってその日のうちにつたわるようになっていた。

 オークンは高校の何年か下の後輩で、卒業して十年ほど後に再会したのは、久しぶりに出た籠球部のOB会でだった。弱体化した籠球部の監督に体育大卒の新任教師が迎えられ、すこしは高揚した気分でみなが集まったのだと思う。

 試合球がないんですよ、ずっとのちに、ぼくらがオークンやコウチャンと籠球のクラブチームをつくってしばらく活動したあと、ぼくが生活上の理由からチームを離れざるをえなくなったころにオークンとどこであったのか、ぼくがひとりで住む部屋に、練習にも試合にもいけない鬱鬱とした心境をまぎらせるために、せめてボールだけでもとニューボールを部屋の隅にころがせているんだ、というようなことを云ったのかどうか、あそばせているんなら、そのボールをかしてくださいよ、試合球がないんですよ、とオークンがいった。しばらくして、部屋の隅で置物のねこのように動かずにねむりつづけるボールをオークンにわたした。

 ぼくらが高校に在籍したころの籠球部はこの都市のトーナメントに勝ち抜き、全国大会に出場することを当然のこととするチームだった。

 コーチは代々卒業生が、OB会の総意をうけて一年間べったりと練習をみることになっていた。

 指導にあらわれる先輩たちは、ミーティングでのたびにすべてがインターハイ、インターハイと全国大会の略称を呪文のように呟いた。第一期黄金時代、第二期黄金時代などとぼくらが生まれるずいぶん前と思えるころの話がつぎつぎと叙事詩のごとく語られた。ちらかり放題で、汗と体臭が強烈にまじりあい、くさいという形容をはるかにとおりこしてしまっている部屋の木製ロッカーのかげに、消えかかった字でたしかに叙事詩の伝説上の主人公の名を見いだしたりすると、やはり口承で歴史は伝えられているのだとたしかに思えた。

 部屋の汚さは尋常なものではなかった。体育館裏の薄暗い螺旋階段をのぼったところにぼくらの部室があった。大きな木製の扉を開けると、はじめてこの部屋に入るひとは、汗と体臭と、めったに洗濯されることのない練習着やシューズから発散される強烈な複合した臭いのために、例外なく涙をこぼすか、吐き気を催して暗い螺旋階段をかけおりた。この異様な臭気に慣れ親しみ、平然とこの部室で弁当を食べられるようになることが、籠球部の一員として認知されるための通過儀礼のひとつででもあるかのようだった。ひろげた弁当の横には、汗に濡れ、吹き出した塩分でカチカチになった練習用パンツが、はかれていたままのかたちで前衛的な彫刻作品のように机のうえに直立していた。パンツの持ち主であるオークンは、化学繊維で運動の機能にあわせて柔軟に自在につくられているはずのパンツがいかなる修練と長きにわたる忍耐によって、彫刻のオブジェといっていいほどの硬質の機能美を獲得するにいたったかを、弁当を食べながら力説した。オークンによると、汚れて臭くなるパンツを洗濯するのをいかに我慢するか、そのこころの葛藤の過程を忍耐というらしかった。

 ただ、ずぼらなだけじゃねえか、とぼくが云う。

 そういういいかたをしちゃうと、とオークンがさからう。見も蓋もなくなっちゃうじゃないですか、先輩だってパンツに虱をわかせて、臍の中で虱が運動会してるって大騒ぎしたくせに。

 部室の広さはグランドの片隅に馬小屋のように並んだ他の運動部のような狭いものではなかった。籠球部が学内でも格別の地位を占めているは、その広さでも充分に証明されていた。高学年になると、授業を脱走して学校にいる時間のほとんどをこの部屋で過ごした。

 ぼくらが入部したころは、第三期黄金時代といわれる時期がすぎてチームは弱体化してまきなおしにやっきになっていた時期だった。

 四年上のチームは全国制覇も可能かといわれたほどで、隣国の代表チームとの国際親善試合でのユニフォームの不揃いときたなさはすでに伝説と化していた。ユニフォームはいつのころにつくられたのか代々伝えられ、濃いえんじ色のスクールカラーは無数の洗濯がくりかえされたために脱色して白っぽく、背番号の数字はところどころが剥げ落ちてさえいた。

 三年上は後一歩で全国大会にいけなかった。二年上はほとんど勝てない。練習はいきおい苛酷なものだった。同じ高校で二年上の兄ははじめは籠球部に入ったが、半年も経たずにやめた。ぼくが入部するというと兄は、おまえなんか二ケ月ももつものかと断言した。兄の声が耳をはなれず、毎日指折り数えて何日もった、とひそかに日数を数えつづけた。夏の合宿中には朝起きると、毎日のように何人かが消え、夏が過ぎると、七、八十人はいた新入部員はひとけたの数になってしまっていた。

 練習メニューはいまから思えば、すべて正当なトレーニングの理論から逸脱したものばかり。ただ腰をいためる効果しかなく、しごくためだけの腹筋運動や、「殺人パス」と名付けられたおぞましい練習さえあった。「鬼」や「悪魔」と冠詞のついた先輩があらわれると、ぼくらは恐慌におちいり、泣きながらコートを走りまわらされた。

 「乞食バスケット」とよく先輩がいった。ルースボールになって、彼我のどのチームのものでもなく転々とコートに転がったボールを全力で追いかけず、コートの外にだしてしまうことは最大の恥辱とされた。落ちているものはなんでも拾う、というのがその名の由来だったように思う。

 試合では何をしてもいいんだ、とにかく勝てばいい、と第三期黄金時代のキャプテンはいいはなった。「なにをしても勝てばいい」という倫理は社会的で道徳的な規範にことごとく反発したい年頃のぼくらにはむしろ新鮮なものにうつった。この都市の籠球協会につながる体育教師が顧問や監督をしているわけでもなく、子供たちやOBだけで運営されている高校のチームがのぞましい学校体育をめざす指導者たちに歓迎されるわけはなく、試合で不利な笛をふかれるというのは、もうぼくらのチームの宿命のようなものになっていた。そのようなハンディを実力で突破してきたんだという自負みたいなものがそのキャプテンのことばからはうかがえた。

 オークンと再会したOB会の頃、三十にも達しない若さであるのに当時のぼくは過食と暴飲と運動不足のため百キロ近くある体重をかかえて階段の昇降にも息切れするほどだった。

 ぼくと同年の小鍛冶君は、はるかかなたの原初ともおもえる中学時代からの籠球仲間だが、その体質もさりながらいまだに練習をつづけているらしく、全くその痩身はかわらない。小鍛冶君は中学の籠球部のキャプテンだった。同じ高校にすすんで籠球部にはいった。新入部員にはボール磨きが課せられ、ボールを家に持ち帰って磨いてくることを義務づけられた。ボールを膝の上において唾で湿らせた指先で力を込めて磨き上げる。小鍛冶君はぼくとちがって他の誰よりも熱心に暇をみては磨きつづけて指先にはたこができてかちかちになっていた。小鍛冶君の磨き上げたボールは黒光りして手によく馴染んだ。

 オークンが小鍛冶君となにか話をしているところにぼくが口を挟んだ。小鍛冶君が運動をつづけている衛星都市の籠球チームの練習に参加させて欲しい旨をオークンは願い出ているようだった。

 いいよ、いいよ、ぜひおいで、と小鍛冶君がオークンに答えたときに、ちょうどぼくが口を挟んだために、オークンはまた初めから小鍛冶君に快諾を得たばかりの懇請の内容をぼくに説明しなければならなかった。

 先輩も一緒にいきましょうよ、とオークンはいった。かれの誘いはうれしかったが、突き出た腹のことを考えると、俄に即答することははばかれた。

 同年のコウチャンも、ぼくと同じ積年の思いをもっているようだった。コウチャンは高校から籠球をはじめたのにかかわらず、天分ともいえる体力と籠球に入れこむ熱意は尋常なものでなかった。練習を始める前に、三、四キロ離れた城跡まで走り、公園として整備された城内をめぐり学校まで帰ってくる十キロほどのランニングコースがあったが、そのランニングでコウチャンに勝てるものはいなかった。出発してしばらくすると先を行くコウチャンの後ろ姿は瞬く間に視界から消えた。ぼくらがインターハイ予選に敗れ去って、脱力感にとらわれているときにも、いちはやく立ち直って国体に行くんだと練習をつづけた。目標を失って、ぼくが怠惰としかいいようのない日常に入ってしまっていたころにコウチャンは大学チームのセレクションに参加したりしていた。

 あれほどまでにインターハイと思い詰め、予選でむなしく敗退した日のことは何十年たっても脳裏から去らない。試合が済んで、皆と離れて体育館の個室のロッカールームにもぐりこみ、手当たり次第にものをなげつけてから、黙って涙を流して着替えをすませ、チームメイトの誰とも顔をあわせずにひとりで帰った。とりつかれたような籠球狂いは、その日を境に終わった。煙草を喫うようになり、少しこづかいが入ると酒を呑み、授業にもほとんどでない自堕落な生活にあけくれた。幻の革命とやらを本気で信じたわけではないが、ヘルメットを被り、棒をもって走った。体育会系の人間は敵とすら思えた。

 コウチャンと語らって小鍛冶君の練習場である、都心から一時間ほどの衛星都市の体育館にでかけた。籠球の体力的な厳しさはわかっているつもりだったが、十年ぶりのそれは想像を超えていた。ツーメンダッシュのコート一往復だけで、脳が虚血したかのように視野が狭窄し、いくつもいくつも小さな白い星が明滅した。練習の終わりごろには胃液が食道を逆流した。薄茶色の甘酸っぱい吐瀉物は十年の怠惰へのささやかな刑罰がまじっていると思えた。

 この衛星都市の籠球チームはNクラブといった。新興の住宅地や中小の工業団地の進出を背景としているからだろうか、Nクラブには体育教師、工業団地で働く技術者、モルモン教徒のカナダ人、地元の高校生、商店主など雑多な人々が出入りした。小鍛冶君のおかげでぼくらはまたたくまにチームにとけこんだ。ぼくとオークンとコウチャンの三人は週に一度バイクや車でほとんど休まずに通いつめた。オークンは車で走り回る仕事をしているらしく、来るたびに、ふつうのスピードなら小一時間かかる体育館までいかにはやく到着したのかを吹聴した。練習が終わって、オークンの車にのせてもらって帰ったことが何回かあった。話とはちがってずいぶん安全な運転だった。

 体力の回復への希求は、ほんの少し運動を再開すると、意想外に膨らみはじめた。近所のお菓子屋のおじさんが週に何回か、城跡まで走る会を組織していると聞いて加わった。高校のころ練習前に毎日のように走った城跡、というのもなにかなつかしいような気がした。

 城跡は公園として整備され、再建された天守を巡って幾重にも重なる堀は築造当時のままで、堀を縫うように周回道路も整備されて一周二キロほどのおあつらえむきのジョギングコースとなっていた。大手門の前に三々五々集まったひとたちが、さあ行きましょうか、競争はなしですよ、今日も暑かったですねえ・・・などと軽口をたたきながら走りはじめる。数百メートル走ったろうか、もう誰も口を聞かない。城内に入ったとたん、グンと加速する一団がでる。競争はしないよ、という言葉はまさに逆の意味でしか使われていないことがわかる。何回走っても誰かがかならず、競争は無しですよ、という。みなが、うんうん、と答える。けれど、必ず苛酷な競争になる。誰もが密かにあいつにだけは負けたくないという暗い情念を隠し持っているのか、体力の獲得の初期の段階を通り過ぎれば、その獲得した体力を足場に精神的な自虐を愉しむようにひとはできているのか。城の正門である大手門がランニングコースのゴールとなっているのだが、夜はライトアップされ、漆黒とはいわないまでも、闇の中を疾駆して来た走者が大手門へと向かう迷路のごとき小門をぬけて、外に出るやいなや、投光器から投じられるあふれるばかりに眩い光の束が、闇に慣れた眼にふり注ぎ、ある種の恍惚感に満たされるのも、暗黙の競争にひとを駆り立てる要因であるのかもしれぬ。

 週に二、三回の籠球とランニングの成果は日を経るごとに効果をもたらしてベルトの穴は詰まった。

 Nクラブで数年過ごすうちに、自分たちのクラブチームをつくろうという気運がうまれた。チームの名はKクラブと名付けた。草創期の固定したメンバーはコウチャン、オークン、小鍛冶君、ぼく、それに大学に入ったばかりのヒロの五人。試合のときには他に何人かが不定期に駆けつけた。いつでもぎりぎりの人数で、メンバーチェンジもままならない。

 後輩たちで籠球をつづけているものもあまたいたが、ぼくらのように十年ちかく離れてしまっているものとは違い、大学のOBチームや実業団チームなどもろもろの所属チームが当然のごとくあり、高校のOBの籠球チームを新しくつくったといっても、かれらが簡単に移籍してくるとは思えなかった。

 実業団チームで中心的な選手だった山下君にはなかば呆れ顔で、実業団チームでもでっちあげて下部リーグから勝ち上がってきたらと冷笑され、大学で現役の薮中君には、いつでもお相手しますよ、とほとんど嘲笑された。無理もない。三十に手が届くかという人間ばかりが集まり、若い人たちと伍して苛酷なゲームを戦おうというのだから、かれらの嘲笑には充分過ぎる理由があった。

 この都市の籠球の公式戦は実業団と大学の何部かにわかれたリーグ戦が主で、クラブチームは百余りのチームが年二回のトーナメントをおこなっていたが、リーグ戦ができるところまではいたっていなかった。それでも年二回のクラブチームのトーナメントを勝ちあがれば、一年で十四、五回の公式戦は確保できた。大学や実業団との公式戦の機会は少なく、年一度のこの都市の首長杯をかけたトーナメントと、各所属連盟の上位チームで争う総合選手権の二度だけだった。他にはある政治党派の組織するオフィシャルではない体育連盟の大会もあったが、ぼくたちは試合さえできれば何でもよかった。どこへでもでかけた。選手登録の資格審査など無きに等しいこの党派の大会には他チームに所属する後輩たちも加えて混成チームで出ていつも優勝した。オークンがシュートする瞬間や、ヒロがリバウンドをとったところがこの党派の機関紙である日刊紙に写真がでたりした。籠球からはなれて、しばらく街頭デモに没頭していたころは、敵対党派として蔑みの対象であった党派のささやかな大衆運動の一翼をになっているのかと思うと、なにかこそばいような気もしたが、ゲームさえできればそんなことは、こだわるほどのことではなかった。驚いたことに、この党派の大会には全国大会と銘打ったものさえあり、代表チームとして首都にもでかけた。遠征の夜はわけもわからぬほど酔って騒いだ。遠征先の宿屋の女将は、学生さんばかりとおもってお安くしたのに、と愚痴って、愚痴るだけでなく、これぐらいは食べていただかないと、と云って大きな舟盛りを部屋にもちこんだ。

 騎手のチームとも試合した。競走馬の調教のための広大なトレーニングセンターの一角に、社会と隔絶されて暮らす彼らの保養のために立派な体育館が建てられていた。騎手というのだから背は低い。家族総ぐるみで応援に駆けつける。手をぬくなというまでもなく、だれもが手をぬかず攻めまくる。厳しい勝敗の世界で生きるかれらにはわかる。唯一のシュートがはいったときのかれらのよろこびは尋常なものでなかった。試合を終えて厩舎を案内してもらう。馬の名も、競馬のこともぼくらはなにもわからぬ。足下に点々と転がる馬糞を騎手のひとりが何げなく拾い上げる。馬の体調がひと目でわかるんですよね、といったかどうか、粘り気のない乾燥した馬糞はもみほぐされてさらさらと風にながれた。

「悪魔」といわれた先輩がコーチする女子の実業団チームとも練習試合をした。作戦タイムのあいだ、むこうのベンチから平手打ちの乾いた音が何発も響いてくる。彼女たちは泣きながら走っていた。突進してきた相手の女子選手にオークンははげしくはねとばされた。

 ある都市銀行のチームとの練習試合はあと味の悪さだけがのこった。彼らは日常の業務の憤懣を、おしなべて腹の奥深くにかくしこんで培養しているとみえて、愉しむべきはずのゲームに、彼らにしか通用するはずのない屈折した底意地の悪い倫理を押し通そうとした。つまり汚い手ばかりつかった。何をしても勝てばいいんだ、と第三期黄金時代のキャプテンはいい、若い高校時代のぼくらは深く同意して心に刻み込まれるように聞いたが、それはこの鬱屈した銀行員たちのように「汚い手」をつかってもいい、ということではなかった。一触即発の雰囲気のなかで揉み合いが起こり、ぼくらはゲームを中断して帰った。揉み合いのなかで、気が長いとはけっしていえないオークンが手を出したのかどうか。オークンの左目のまぶたの周辺が腫れ上がっていた。やつらのひじでね、とオークンは云った。背の低いオークンを狙ってあのきたないやつらが、本来のプレーと関係のないところで意識的にひじを出して、走りこむオークンにカウンターを食わせたのはあきらかだった。もう一度ひきかえして決着をつけてやろうか、とぼくがいう。オークンは苦笑いしながら、喧嘩をしに来たわけではないですからね、といつになくぼくを諌めた。

 実業団の山下君のチームとは練習試合をして勝った。山下君は実力どおりでない、と不服そうだったが、ときを措かず公式の試合であたることになった。山下君のいれ込みは尋常なものでなく、自軍のメンバーがミスをすると烈火のごとく怒り、ほとんどじぶん一人でボールを運び、じぶんでシュートしようとして自滅した。二回目の対戦のあと、しばらくして山下君はぼくらのチームに合流した。

 大学の現役である薮中君のチームとも試合した、数十人の部員が威勢のいい掛け声をあげながら走りまわる大学の体育館に、ぎりぎりの人数でかけつけ、若い部員たちの冷笑で出迎えられた。試合がはじまると、かれらの威勢はまたたくまに萎えた。薮中君も卒業と同時にぼくらのチームに加わった。

 はじめに練習を再開した郊外の体育館を練習場にするNクラブからもホーカベ君やゴウダ君も加わった。ホーカベ君はぼくらがねがって行けなかったインターハイに行った。試合が近づくと近くの学校の校庭で二百本も、三百本もシュートを打ちつづけた。ゴウダ君は高校のころにこの都市の代表チームの一員にえらばれたものの上には進まず、籠球部のない家電メーカーに就職していた。ゴウダ君の強烈なダンクシュートは対戦前の練習で相手チームに戦意を失わせるのに十分な効果を果たした。のちに全国でも屈指の力量をもつ当の家電会社のラ式蹴球部にスカウトされて、実業団の日本選手権の決勝で、あの歴史に残る土壇場での敗戦のときのメンバーとして出場した。

 世話になったNクラブが弱体化するのはしのびなかったが、おれは強いチームでやるよ、とホーカベ君は事もなげにいった。練習に参加してチームの一員になるための条件をぼくらは何も求めなかった。来るものは拒まず、去るものを追わない。ぼくらのチームはどんどん強くなって行った。

 この都市で日本リーグ入りしているチームをのぞくと、もっとも強いといわれる実業団のチームと対戦することになった。かれらのすべては大学の一部リーグで活躍し籠球の技量をかわれて職を得た選手ばかりだった。日本リーグ入りを目指しているらしく、毎年強化にはげんでいた。ぼくらのように寄せ集めで、練習場の確保に走り回り、勝ち上がるほどに、練習も試合もたくさん出来ると単純によろこんでいるのとは対極にあるチームといえた。かれらはぼくらのことを歯牙にもかけず、ウォームアップのようなつもりで試合に臨むだろう。ぼくたちは、すでに体育大学のOBチームや、この都市の高校の体育教師で組織されたチームにも勝っていたが、同好会的な性向の強いチームがほとんどを占めるクラブチームをかれらが意識するとも思えない。けれども、籠球が好きで好きでたまらず、練習のための体育館の確保にあの手この手を使いきり、試合にあけくれた数年間の蓄積は、チームのメンバー全員に、なにかある種の目に見えぬ自信のごときものを芽生えさせたかのように思えた。練習や試合が終わればかならず酒盛りがはじまり、延々と籠球の話しばかり。「籠球のゲーム」の一語を発すれば、メンバーのそれぞれの職場でも、だれも文句はいわないほどにみなが入れこんでいた。個々の技量は劣っていても暗黙のうちになされた意思統一の力はそう馬鹿にしたものではない。旅にでた鳥がつぎつぎと古巣に帰ってくるようにしてできあがったチームだった。勝てるとは思えなかったが、もしや、という思いは全員が抱いた。

 低得点のゲームでなければ勝算はない。ファーストブレイクのかけあいでは、スピードと技量に勝るかれらのペースに嵌まってしまう。リバウンドを互角の勝負にもちこみ、とればセットオフェンスでボールをまわして着実に加点する。相手ボールになれば、最初の一撃を阻止してしつこくワンオンワンでディフェンスする。ディフェンスの成否が勝敗をわける。

 試合がはじまった。やはり相手はこちらを侮っているのだろう。控えの選手を中心に出してきた。五分たち、十分たつ。相手に速攻をゆるさない。こちらの攻めはゆっくりゆっくり制限時間をフルにつかう。ガードのオークンがちょこまかと走り回ってボールをまわす。いつもならうつシュートチャンスでもホーカベ君もよほどのタイミングでないとうたない。十分を過ぎても双方の得点は十点を少し超えただけ。こんなはずではない、という相手のメンバーのあせりのようなものが息遣いから感じる。相手コーチは業をにやして主力の選手を投入してきた。いったんさだまった試合の流れはそうやすやすとかわらない。速攻がだせない相手チームは無理なシュートを連発する。ヒロやゴウダ君がリバウンドをとる。前半の二十分を終えて得点は双方とも二十点台にとどまるという、こちらには願ってもない展開になった。後半にはいっても、おたがいのディフェンスの鎬あいがつづく。

 ポストにはいったヒロにパスをいれるとみせかけたオークンの意表をついたシュートがはいって二点差、コウチャンがカットインできれこんで、逆サイドからゴール下に突っ込んできたゴウダ君に手渡しのような短いパス、ゴウダ君の両手ダンクシュートで四点差。残り五分をきって相手は完全に浮足立った。

 僅差ながらぼくらのチームが勝った。職業的な匂いをふりまいて選手に采配をふるっていた相手チームのコーチの顔が怒りと屈辱で醜く歪むのをたしかに見た。ベンチ前での彼らのミーティングの円陣はいつまでもとけなかった。

 チームの絶頂のころを境にしてぼくはみずからの生活上の変化から、時間的にも精神的にも練習や試合にでかけることがかなわなくなった。ひとりチームから離脱するのは耐え難かったが、詮無いことだった。チームの活動のようすは風のたよりで聞こえてきた。そのたびに籠球への渇望はつのった。

 オークンの遭難の報がとどいたのは暑い夏の盛りであった。狭い盛り場のいりくんだ道は勤め帰りのホステスたちでごった返していて、オークンと友人のふたりもその一群にまじって帰路についていた。すこしの酒ははいっていたろう。一台の車がクラクションをならしてそのひとびとの群れに突っ込んでくる。あぶないじゃないか、というぐらいのことはオークンの義侠心を知るものにとっては当然いうことだろう、と思える。激高した車の男たちが降りて来て、オークンの友人が引き倒される。オークンが友人をかばってひきおこそうとして身を屈める。男のひとりがいつのまにか車のトランクからひきだした鉄棒を握りしめてふりかぶる。体をかがめてまったく無防備にさらされた後頭部に鉄棒がふりおろされる。

 オークンの収容された病院は、籠球からすっかり離れてしまったぼくが、夏のあいだの午前中体力の維持をかねて通うプールの途上にあった。プールは繁華な盛り場の少しはずれのボーリング場やパチンコ屋のはいるビルの屋上にあり、その立地と小ささからか、あまりひとに知られずいつもすいていた。特に午前中はプールの主要な客層である夜の仕事のひとたちの多くは、まだ深い眠りのなかにあるのだろう。ほとんど泳いでいるひとはいない。誰も泳いでいないプールにとびこむ。一瞬に視界が青い透明なブルーにかわり、幾筋も細い光の帯が斜めに突き刺さっている。プールの底にひかれた白いライン、排水口の上の金属製のふた、むこうがわの壁などがあざやかに目に入る。泳ぐともなくしばらく水中を浮遊する。向こう側の世界がこのようなものであったら。透明で、やや青みがかり、光の束が幾筋も差し込み、優しい膚触りの液体に全身がつつみこまれて、自らの重量も感じることなく、至福に満ちて、あてどなくいつまでも漂いつづける。向こう側の世界が・・・・・・。

 自転車でプールに向かう途上、オークンの収容されている病院に立ち寄った。世間はおしなべて夏期休暇中で待合室にはだれもいない。受付も窓口は閉ざされたままだ。面会はできないとあらかじめ知らされていた。薄暗い外来待合室で院内の案内板を探す。迷路のような直線の組み合わせのひと隅にICUと記されたところを見つけた。案内抜きでひとりでたどりつけるとはおもえなかった。光の束がいくつもいくつも突き刺さる水中の映像が浮かんでは消える。なんとか集中治療室の扉の前に辿りついても、開けられることのない鉄扉の前でなにを念じればいいのか。踵を返して病院の外に出た。強烈な日差しが襲う。鼻の頭に汗の粒がまたたくまにわきあがるのが見える。プールにゆこう。水中にもどろう。ぼくは自転車にまたがった。

 一週間ほどもちこたえたオークンは意識を回復することなく向こう側に逝ってしまった。

 オークンの一件はそれ以後、しばらくのあいだその名を口にするのもはばかれるほど、ぼくらのあいだに深い傷を残した。ひとの死が、いくぶんかの必然の衣を着てあらわれるとき、こちらがわに残されたものはその必然の衣裳のあれこれをあげつらって、悲嘆の時期をやりすごすことができる。けれどもその死が、ひとかれらの裂地でおおわれることもなく、偶然に、もしくは丸裸の突発的な事象としてあらわれると、あげつらうべき、やりすごすべきことばをもてない。たしかに起こったことなんだが、まるでなにもなかったかのように、沈黙するほかない。沈黙はいつまでも治癒しないじくじくした潰瘍のように悲しみを増幅させる。

 棺の中のオークンは、Kクラブのユニフォームで全身を覆われ、片隅に籠球の試合球がいれられていた。ぼくがチームを離れざるをえず、残影のように部屋の片隅にころがっていたボールのことをオークンに話す機会があったように思う。

 新しい試合球がないんですよ、ボールの新しいのがないんですよ、とオークンは云った。ぼくがわたしたボールがいまここにある。

 原始のひとは愛するひとが逝ったとき、みずからの歯を抜き祈り供えたという。

 みずからの持て余す熱情のすてどころとて無く、深夜に手すさびにもてあそんだボールがオークンとともに向こう岸にひと足先に赴くのも、単なる偶然とはいえ、欠け落ちた歯の残片を供えることに似て、なにほどかふさわしいように思えた。

                                 了

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