岩崎裕一くん 追悼文

 赤松 伸一(3-E)


1. 岩崎裕一君とは、高津1年の時に一緒の組でした。岩崎君はバスケット部に入り、僕は野球部に入りました。 中学はまったく別でしたが気が合い、夏はプールに遊びに行ったり、淡路島に行ったり、また、学園祭の時、僕のシナリオで(授業風景の演劇/素人芝居)を一緒にやったり 思い出が駆け巡ります。当時、僕は放送作家にマジでなろうとも考えていました。
2年生以降は、クラスは違い岩崎君は理系、僕は文系に。また、僕は野球からスキー部に入りなおしていましたが、彼は運動部をやめて、社会研究の会に入ったと記憶しています。
クラスや
日常のクラブ活動など、違った分野にいても、いつもお互い「元気してるか?」 とかたまには僕の秘蔵書?を貸したり受験期もたまには会っていました。

(名目は 受験勉強)

2. 一番の思い出は大学に入り、お互いに卒業記念にスキーに行こうということになりました。たしか、卒業が決まり、3月はじめだったと思います。
初めは、アラスカあたりまで遠征と考えてたのが、岩崎君は歯学部で卒業年次が合わなくやむなく?、北海道と 信州の2か所に行くことにしました。
(当時は北海道に行った帰りに信州で スキーして帰るというのは、贅沢の極みでまたは
バカが考える事でした)

ちょうど東京(羽田経由)で、東京1泊、北海道ニセコ2泊、信州野沢2泊だったと記憶しています。 初めは、僕は、付き合ってた彼女(東京立川に居ました)が途中まで同行してもらうとか考えましたが 彼女の学校の予定とか岩崎君の心情を考えて、結局、東京で会って、スキーには男2人旅です。
ただ、スキーをニセコのパウダースノーで練習し、岩崎君もすぐにうまくなって帰りの野沢温泉スキー場では、ターンも自在にできるようになっていました。 彼が履いてたスキーは
僕の譲ったものですから、いい滑りができたでしょう。

岩崎スキー01

ニセコでの夜は、もっぱら ロッジ(白樺荘)の若い女性(名前は忘れましたが)に岩崎君がアプローチし頑張っていましたが、ものにはならなかったですね。
スキー場で会う女性は、かわいく 美しく思えるんだよ“” リフト乗り場で大学時代、待ち時間に住所と電話番号聞いて、帰ってから下界(街)で会ったら大変な目にあった??」と 先輩が言ってたよ“”と 何回も岩崎君に言ったことを覚えています。 先輩でなく僕自身の事でした。。。

3. いずれにしても、大学卒業前のスキー旅行以来、僕は旭硝子に入社し、東京の有楽町丸の内に20年あまり。。 岩崎君は、阪大の大学院に上がって、歯学博士になり徳島大学の講師から助教授へ。。。 お互いの道はあれども、年賀状などは毎年欠かさない仲でした。またネットが普及してから、お互いの動静(僕の場合 北海道の会社のネット)がわかるような時代になりました。
たしか、10年近く前、帰阪していて(当時 北海道に単身赴任)5月の連休に、一人で車を飛ばして、徳島のご自宅に行きました。 徳島大の近くの立派な一軒家で こだわりのお家です。 奥様にもいろいろごちそうされて、3人のお嬢さんの事とか、進路とか、相談されました。

岩崎東京02

岩崎君、 一昨年の同窓会では元気そうでした。。、 以前 大病を患われて、お酒他すべて絶たれてその後も節制されつらいことも多かったと思います。

ただ 今年の年賀状にも「大学の定年まであと3年、 頑張ります」と記述され、僕が昨年7月に大阪に戻って挨拶状を出した際も、真っ先に連絡をくれました。
お互いに、また大阪と徳島を行ったり来たりしようと話していた中で、 急に体調を崩されたと思います。

今は 岩崎君とのいろんな思い出が、はっきりと浮かんできます。 大病をされて、その後も透析を続けているんだと聞いて、何も応援できなかったけどゆっくり休んでください。

49日には ご仏前にお邪魔します。

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