ベルンに寄り道


「ベルンに寄り道」


今日も今日とて風まかせ、行方定めぬ旅枕、ままよこの世は一人旅

・・・ということで、3C 丸岡です。


たいていは年がら年中、南国方面を行ったり来たりしておりますが、まあ、年に一回は仕事の関係でドイツに行ったりもしておりまして。そんなことで、今年は12月7日の週にドイツの関係先をぐるっと駆け足でまわってきたんですが・・。

さて、かねてより22期同期会世話役諸氏から、こんな風に聞かされておりました。

・同期の奥田修くんが、30年近くもスイスに住み着いている。

・「パウル・クレー」とかいう著名な芸術家(・・う~む、知らんな~)がいて、奥田くんは世界的に名の知れたクレー研究者である。

・で、クレーのための美術館(パウル・クレー・センター)がスイスのベルンにあり、奥田くんは、その美術館の上級学芸員である ・・・等々。

聞かされていたことが頭の片隅に残っていたのか、11月に今回のドイツ出張の日程を組んでいるとき、ふと思いつきました・・「ドイツとスイスは隣り合わせやな~。ベルンとフランクフルトは電車で行き来できるしな~。適当に一日都合したらベルンに寄り道できるわな~」と。

思い立ったが吉日で、ネットでパウル・クレー・センターを探して電話し、出てきたおね~さんに奥田くんを呼び出してもらいました。

「はい、オクダですが」

「え~っと、あの~、こ、こ~づこ~こ~卒業の、お、おくださん・・ですよね」

「ん?そうですが」

「ああ、ですよね~。こちら、お、おなじ22期卒業のMa、Maruokaというもんですが・・」

「Maruoka?・・(しばし沈黙)・・うむ、そういえば聞いたことがあるような」

「あ、ちょっとは覚えてはる? いえ、ほら、え~っと、あの~、じつはですねぇ・・」

・・などと、テキパキと話をすすめ(どこがテキパキやねん)、相手の迷惑かえりみず、とにもかくにも訪問日程の押し売り相談。あとはメールでやり取りしつつ、無理が通ったり道理が引っこんだりしまして、さてはて、雨のそぼ降る12月9日の朝、やって来ましたスイスのベルン。

ベルン駅の案内所でパウル・クレー・センターへの行き方をたずねると、「タクシー高こおまっせ、片道15フランかな。バスは安いで、片道4.4フランね」

早速、バスの切符売り場へ。「この切符な、停留所の前に赤色の機械あるやろ、あれに差し込んでパンチ入れるんや」「へ?バスに乗る前に、でっか」「せや、必ず乗る前にパンチ入れてや」「あ、はい・・」

で、停留所で切符にパンチ入れて、12番のバスに乗り込む。まあ、ふつ~のワンマンバスですな。ふ~ん、降りるときに運転手に切符渡すんかいな~と思ってると、停留所ごとに、みな勝手に乗ったり降りたり。むむむ、この切符、何の意味あんねん。パンチ自分で入れる?・・どういうこっちゃねん。

まあ、ドイツのSバーン(近郊電車)なんかも、地元の若い連中は切符買わずにてきと~に乗ったり降りたりしてます。なにしろ、ヨーロッパの電車の駅には「改札口」というものがない。つまり基本は、切符買ってそのまま電車に乗る。見送り・出迎えのための「入場券」・・などという思想がない。基本は車内検札(長距離電車ではきっちり来ます)。

さて、写真はセンターに向かう途中の風景。

向こうに見えるのがベルン市街。写真の左上あたりに、ベルン市の紋章でもある熊さんが電線の上で踊ってます。もちろん人形でして、こういうやじろ兵衛人形は、ドイツの田舎町でわりと見かけたりするんですが。

まあそんなこんなで、15分ほどでパウル・クレー・センター前に。

降りてはみたものの、どっちへ行くんや。いえまあ、すぐにはわかりにくいんですが、一応表示はありました。

その方向へ、とことこ歩いていくと、ほら・・・。


 ほほぉ~、三つのアーチ屋根で構成されてます。で、建物と道を挟んだ向かい側になにやら赤い標識みたいなものが。

その前に行き、建物側から見ると、こんなんです。(→)

へぇ、何のモニュメントやろか・・。

と思いつつ、奥田くんのケータイに「今、着いたから」と。

するとなにやら慌てた口調で「あ、あのね、ちょっと待ってね。すぐ行くから。いや、昨日飲み過ぎて・・」「飲み過ぎた?二日酔い?・・時間かかる?」「すぐ。15分くらい。ごめん、中のカフェで待ってて」「15分?家から?えらい近いとこに住んでるんやな~。はい、ほなコーヒー飲んで待ってます」

とりもあえずも外で一服くゆらして、カフェに入って定番カプチーノを注文。「ほら、4.4フランやで」・・・ん?バス代も4.4フランやったわな~。いや待てよ、4.4フランといえば、まあ540円。高いな~、日本やったらドトールで二杯は飲めるし。まあ、昔からスイスの物価は高いけど・・などと一人淋しく頭の中で愚痴っておりますと、黒いハットに黒革のハーフコート。グレーのシャツに黒フリース、銀縁メガネにひげを蓄えたロマンスグレーのアジア系の老人がそそくさとこちらの方に・・「あ、すいません。いや、お待たせしました、奥田です」と。

 さすがはスイス在住30年、一つ間違うと怪しいオッさんになりそうなところを巧みにかわし、なるほど芸術関係者とおぼしき風体。「いや、ど~も。お久しぶりと言っていいのやらよ~わかりませんけど、いや、ど~も」と挨拶してみたものの、何をどう話すべきか。

♪5年すぎれば~ 人は顔立ちも変わる~ ましてや男 ましてや他人・・・(以上、中島みゆき) ましてや高津以来のほぼ50年。言うなれば、ほとんど初対面の警戒と緊張感がテーブルを挟む二人の間に漂う・・わけですな。

そこで、12月5日の22期同期会世話役忘年会の際に撮影した誰さんや彼さんの写真(奥田くんとは小学校6年8組でいっしょだったあの人この人、さらには高津22期を象徴する同人誌『絶版』の同人仲間)を見せて、「ほらね、私のことはともかくも、みんなからよろしく、と」

すると、「うん、XXくん。メールで連絡してるし」「あ~、OOくん、家行ったことあるな~、ミニチュアカーなんか見せてもらった・・」「へぇ、□□さん、あの頃から変わらへん」(・・ん?奥田くん、メガネの調子悪い?やっぱり二日酔い?)

そんなこんなで、まあ雰囲気も多少はなごんでまいりまして。

「スイスにもう30年と聞いているが、なんでまた?」

『三十数年前、大学院の助手のころ、たまたまパウル・クレーの展示が日本であり、その手伝いをすることになった。それが縁で、当時の奨学生制度があって、すでに二人枠は埋まっていたが、特別に三人目に入れてもらってスイスに来たのが始まり』

「で、そのまま30年?」

『奨学生は2年だったが、あるプロジェクトに補助金が付いて、それにかかわって10年とか。』

「なるほど、補助金。芸術に対する支援。。つまるところはきわめて恣意的な貴族の余裕みたいな。ひょっこりひょうたん島で教わりました。♪モーツアルトの交響楽も あのダビンチのモナリザも シェークスピアのマクベスも 暇に飽かせて 金つぎ込んで みんな貴族が励まして やらせてあ~げた お芸術・・って」

 『(ひょうたん島を無視して・・・)また別の補助金が出たりとか、いろいろあって、パウル・クレー美術館(注:センターではなくベルン市内の美術館)に勤務して、このセンターが出来て、こっちに。そんなこんなで30年。』「う~む、では、このままずっと?」

『いや、65歳が定年』

「え? そうすると来年帰国?」

『まあ、定年のあと、更に3年は別待遇で残ることになるか、と』

「あら~、ええじゃないですか、好きなことして、まだまだ楽しく働ける・・」

『でもねえ、そのあとのこともあるし』

「なに云うてはりますねん。よ~は知らんけど、パウル・クレーって世界的にも有名な芸術家。そのエキスパートっちゅうことで、なんとでもやっていけるのとちゃいますか」

『まあ、鑑定なんかもあるかも』

「ああ、一年に2回も鑑定したら、楽して食べていける、とか」

『そう・・ね』

「うわ、ほんまでっか。当てずっぽうに云うただけやけど」

『今は鑑定しても、このセンターが鑑定報酬をもらうわけで・・』「うむ、個人でやればがっぽり、でっか」

『少し前にも、10人中9人が贋作だろうと言う作品があって、でも、どうもそうでもないと思って、使ってる絵の具やあれやこれや調べて見ると本物だった』

「ほおぉ、奥田くんだけがそれを見抜いた・・と。ますます専門家としての評価が高まった」

『いやいや(注:謙遜)』

「ところで、贋作とかを心配するほど、パウル・クレーって有名で高価なもん?」

 『まあ、ニューヨークの美術館が保有してる作品は1枚10億円以上。小振りな作品でも1億はする。デッサンあたりは数千万、か』

「ひぇ~、そ~なんや。でも、パウル・クレーって誰なんかよう知らんのですけど」

『パウル・クレー(1879~1940)は、ピカソなんかと同時代のひとで、ピカソは天性の大天才と言われる一方で、クレーは努力の天才みたいな・・』

「ピカソと同時代?ピカソは学校で習うけど、クレーは習わんなあ」

『クレーの両親は音楽家で、クレーの嫁さんもピアニストで・・・』という説明を聞きながら展示室に向かう(注:入場料20フラン)。

展示室には、クレーの作品が子供の頃の習作からだいたい年代順に並べられていて、作風の変遷をたどることが出来るようになってますな。

 「へえ、初めはこんなん描いてはった。ほお、こんな風に変わらはったんや」とか言いながら見ていくうち、ふと、この作品に目が行って(→)

「いや~、これ、急にあれですなぁ、色がええ具合になって、なんともよろしいな~」『あ、これねえ。クレーは1914年にチュニジアを旅するのね。で、それをきっかけにして、色に目覚めるのね。色に目覚めたころの作品のひとつ』

<パシャッ>

『あっ、ここねえ、写真撮影禁止なんやけど・・』

「えっ、あかんのん?けど、もったいないな~」

<パシャッ>

『うわ、また。しょうがないな~。僕、ちょっと君から離れとくから・・』

「あは、申しわけないね~」

<パシャッ>

クレーさん、こんな感じの色と形象の作品を編み出すようになってから、1920年代には現代美術を代表する作家の一人になったようですが、いやはや90年100年前のものとは思えませんな。凄いですね~、ほとんど<今>の感覚、と思いません?いや~知らなんだ、久しぶりに、なんか感心してしまいました。

 で、とある作品の前に来て

『ほら、この作品をもとにして、このセンターの前に立ってるモニュメントが造形された・・』「あっ、なるほど。あれはこれかいな」

<パシャッ>

『・・・・・』(注:あきらめの沈黙)

そんなこんなで、静かな美術館の中でわいわい言うておりますうちに、写真撮ってるケータイからアラームが。

「うわ、もうこんな時間。あかん、もう行かんと電車に間にあわへん」

『お、そうなの』(注:口元に微かな安堵の笑み・・)

急いで、カバンをあずけてあった奥田くんのオフィスへ。

でもって、彼の仕事場、こんなんですわ(↓)。

さて、パウル・クレー・センター弾丸ツアーもここまで。

なお、奥田くんは最後まで黒ハットを取ろうとはしませんでしたが、それについては、ここでは詮索しないことにいたします。

最後に、奥田くんの最近のクレー関係のプロジェクトは、クレー研究についてのオンラインマガジンの創刊。

つい先頃、第一版が発行されました。

http://www.zwitscher-maschine.org

このマガジンには奥田くんの論文が含まれています。ドイツ語論文なので、ちんぷんかんぷんですが、論文の冒頭の「要約」は英語です。

こんな風に始まっています

“クレーが死の3ヶ月前に完成させた絵「Glass Façade」は、あの看過し得ないエッセイ「Painting as provocation of material」が発表されて以来、彼の全作品を通じてその画材・技法を論じる際の鍵となるものである。云々”

・・・う~ん、やっぱし、わからんわ。


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