サモアの思い出

アレルギーの診察室から 47

αγоρα No.245 MAY. 2014

--サモアの思い出--

先日、国立民族学博物館(民博)の元教授、杉本尚次先生から「南太平洋に雄飛した大石敏雄さんの思い出」 (『千里眼』第 125 号 2014.3.25 抜刷)という小冊子が届きました。昨年 10 月 8 日になくなられた大石さ んへの追悼文です。

大石さんは 1943 年広島県呉市生まれで、大阪市立大学法学部時代は探検部に所属していましたが、その時 の顧問がのちに民博の初代館長をされた梅棹忠夫先生でした。大石さんは大学卒業後サモアに渡り、その後独 立してパシフィック・インターナショナル社をおこし、貿易、建設など多岐な仕事を精力的に行いました。大 石さんは梅棹忠夫先生の教え子の一人でもあったので、民博との関係も密接で、民博友の会の「民族学研修の 旅」がサモアのときには、すばらしい受け入れ体勢で全面的に協力されました。

私は第4回民族学研修の旅に参加して、1980 年8月8日から 19 日にサモアに杉本先生引率で行きました。 この旅のことは、杉本尚次先生の『西サモアの日本人酋長 村落調査記 1965-1980』 (1982 古今書院)にも 載っています。サモアの地図上の位置もこの本から取りました。今から思うと、よくそれだけ休みが取れたな と思いますが、その頃は、日本文化の源流の一つは南太平洋から黒潮の流れにのってやってきたのではないか。 南太平洋の島から日本文化について考えてみるのも面白いのではないかと思っていました。杉本先生のセミナ ーに加えて、大石さんの「サモア語講座」も大変印象深いもので、一緒に研修の旅に参加した佐藤芳郎さんが、 この研修の旅のセミナーをテープに収録し、丁寧に文章化した上で後に参加者に配布されました。大石さんが サモアで最初にした仕事は材木屋でしたが、現地で交渉するのに、英語で通訳をたててするより直接サモア語 でやったほうが効果的だと思ったので、サモア語を使うようにしたらうまくいってなんとか仕事につながった。 その際の必死の勉強法、とにかく半年でサモア語の単語を 600 から 1000 語覚えきって、くっつけてみた、そ したらどんどん進展していったというのはその通りだと思いました。

土居 悟

- 12 -

αγоρα No.245 MAY. 2014

研修の旅では、サバイイ島西端に位置するファレアルポ村を訪問しました。杉本先生と大石さんに加えて、 この旅には大石さんと親交のある国家元首の実弟、大首長サアベア・アリイ・マリエトア殿下が同行されまし たが、サモアの伝統と慣習により代弁首長のトラバア氏を同伴されました。これで、旅は公式訪問大旅行(マ ラガ)という形になりました。ファレアルポ村の人々は私たちを客人としてカヴァの儀式でもてなしてくれま した。カヴァはコショウ科の灌木で、その根を乾燥させ水で揉み出します。その液体を飲むのですが、嗜好品 で鎮静作用があり、儀式には作法を伴いますのでサモア流の茶道といったものでしょうか。

研修の旅から帰って、旅仲間で桃山学院大学の池野茂先生から、TALOFA(こんにちわ)で始まる、1980 年 9 月 1 日と 6 日消印の2通の葉書を受け取りました。最初の葉書は旅の写真披露会の提案で、あとのものは その日時の連絡でした。会場での団体名は一応「カヴァの会」としておきますと書いてありました。

その第 1 回「カヴァの会」は 1980 年 9 月 14 日午後 5 時から大阪市天王寺区のなにわ会館でひらかれました。 当日は幹事の私の不手際で会場玄関の看板が「カバの会」と書かれていたので、通りがかりの知らない人がカ とバを逆に読んだりするハプニングもあったのですが、会はすっかり盛り上がって、そのあと夜遅くにもかか わらず、当時浪速区医師会副会長で同じく会員の菱川先生の自宅に招かれ、菱川コレクション(ふくろうの図 柄のものなど)まで拝見しました。

池野先生も菱川先生も他界され寂しい限りですが、池野先生と菱川先生は研修の旅では同室で、一緒にサン トリーロイヤルを楽しんでおられました。その当時はほとんどが二十代だった旅仲間が、その後ハイキング、 忘年会などといって素敵に!知的な?同窓会を「KAVAの会」と称して続けるきっかけができあがったのは、 サモアのカヴァの儀式の秘力であったとしても、その後 10 年以上会が存続できたのはお2人の先生の求心力 に違いありません。私達の会の合い言葉も池野先生からの最初の便りにみえます。サモアの言葉で乾杯の時に 使う「マヌイヤ!」という言葉です。写真はカヴァの儀式です。

1984 年 2 月 25 日のカヴァの会は杉本先生の自宅で開かれましたが、 その時は在日中の大石夫妻と 2 人の子どもさんも出席され、思い出 話で大いに盛り上がったことも、懐かしい限りです。

杉本先生は「南太平洋に雄飛した大石敏雄さんの思い出」の文章 の最後に 1965 年、サモアのサバイイ島ファガファウ村での送別会で、 高位の首長セバ・アイオソ氏の送別の辞「夜は暗く、雲多く星がな い、そうした中を貴方は帆なしで去っていく」(どうか気をつけて旅 をしてください)というサモアの隠喩を、天国を旅する大石さんに も送りたいと書いておられます。大石さん、ありがとうございまし た。

        (寄稿ページトップに戻る)